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燃えよ剣映画のロケ地は主に西日本を中心に60か所近くに及んだということです。
さすがに、これだけ大型の時代劇になるとロケ地を駆け回るだけでも大変ですね。
昔の街並みを残している町なんて早々あるわけでもなく、探して撮影の許可を取るのも一仕事です。
今回はそんな場所探しをしなくても逆にセットを作ってしまったという大胆な発想で、時代劇用のオープンセットを作っていしまったという事例をご紹介します。
そんな大胆なことをやってくれたのが滋賀県彦根市にある彦根オープンセットです。
滋賀県彦根市といえば有名な彦根城がある歴史的風情が漂う街でもあります。
燃えよ剣映画の新選組と彦根市って奇妙な因縁があるのをご存知でしょうか。
早速見ていきましょう。
目次
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燃えよ剣映画の滋賀のロケ地はどこ?
「燃えよ剣」で使った彦根オープンセットを遠めで見てきました❗
近くには立入🈲で行けなかった…
池田屋界隈が再現されてるらしい…知らんけど(笑)
こんな近くで、洸平君が撮影してたのを知らなかった自分が残念過ぎる~😂←知ってても逢えへんけど(笑)#燃えよ剣 #彦根オープンセット pic.twitter.com/JYR8xYTyc6— あけちゃん (@snowyunyoon) January 28, 2020
燃えよ剣映画の撮影が滋賀県彦根市で行われました。
その場所が、滋賀県彦根市鳥居本町に2019年3月にオープンしたばかりの江戸時代の街並みを再現した屋外のセットです。
何と、街を一つ作ってしまったんです。
時代劇用のオープンセットというで有名なところでは、京都の太秦や、日光江戸村なんてところが目に浮かびます。
滋賀県彦根市にもこれに続けとばかりに映画撮影のオープンセットが出来たのです。
出来たばかりのこのオープンセットで最初に撮影されたのが『燃えよ剣映画』です。
その敷地面積は約20,000㎡とのこと。
うち8000㎡を使って池田屋他12棟の江戸時代の建物が立ち並んでいます。
そして、映画の中で一番の見せ所『池田屋』の格闘シーンが撮影された舞台がこちらなのではないかと思われます。
作ったのは滋賀県内の合同会社『Shiga movie labo』。
彦根ををこれから映画のメッカにしたいと夢を抱いているようです。
実際『燃えよ剣映画』が撮影された時は映画作成のためにスタッフ200人近くが一か月近く滞在したのだとか。
今後、映画の撮影がこのオープンセットで継続的に実施されていけば滋賀県彦根も映画の街として活気づくのではないでしょうか。
地方の衰退が懸念されている昨今の日本です。
町興しの一環としてこのような映画撮影所ができたとなれば、地元の人々うれしいことでしょう。
彦根オープンセット画像をご紹介
出典:http://shigahikone.blogspot.com/2019/06/blog-post.html
本当の江戸時代にタイムスリップできそうな町並みが並んでいます。
こんな本格的なオープンセットでロケできるなんて、燃えよ剣映画の関係者は恵まれていますね。
残念ながら撮影シーンは一般人は見られなかったみたいです。
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燃えよ剣映画と滋賀の彦根オープンセットとの不思議な因縁って何?
#彦根城 の麓に金亀公園があるのを皆様ご存知でござるか?
彦根城は金亀山に建てられた城でござる故、別名 #金亀城 とも呼ばれているでござるよ🏯✨#いいのすけ #忍んでみた #亀は万年 #ひこさんぽ #豆知識 #lovehiko pic.twitter.com/VBKoHJHYPN— いいのすけ【公式】 (@iinosuke_hikone) April 29, 2020
ところが、この彦根市と新選組は不思議な因縁で結ばれているのをご存知でしょうか。
滋賀県彦根市といえば彦根城が有名です。
おんな城主井伊直虎で有名となった、徳川四天王筆頭の井伊直政の子孫井伊家のお城です。
井伊直政とは徳川家康に一生を捧げたといってもいい人で、家康のためならたとえ火の中水の中、どんな困難も屁とも思わないという武将です。
井伊家の赤備えは有名ですが、戦国の戦いで真っ赤な鎧を身に着けるなんて敵から見れば絶好の攻撃の的です。
しかも、井伊直政は大将でありながら真っ先に自ら先頭を切って敵軍の中に切り込んでいったというのですから、相当な胆力を持った人物だったと思われます。
関ケ原の戦いでも東軍の先駆けとなり、最後は敵中突破を図ろうとした島津勢を追いかけ、その途中に負った怪我のせいで死んでしまったという、もう本当に徳川家からしたら感謝しきれない位家康に尽くした武将だったのです。
その後、井伊家が徳川幕府で譜代筆頭となっていって彦根藩となっていけたのはこの井伊直政の活躍に負うところが大きいのです。
この井伊家彦根藩から幕末には大老井伊直弼が出ています。
新選組が活躍した時期は井伊直弼が桜田門の変で暗殺された後、時代が討幕へと流れ始めた時期ですが、井伊直弼が暗殺されてから、討幕側が暴れだして、その暴徒たちを取り締まるために結成されたのが新選組となんですね。
そうなると、井伊直弼と新選組、彦根市と燃えよ剣映画とのただならぬ因縁を感じますね。
滋賀県彦根市と新選組の因縁とは?
1860年 #3月24日 #桜田門外の変 で #井伊直弼 横死。水戸浪士の犯行とされますが実は #徳川斉昭 が直接指示し愛蔵の象嵌細工の鉄砲を授けたとも。十四男の直弼は寓居を埋木舎と自嘲しつつ養子の口を求め学問武芸百般に精進。茶道用語 #一期一会 は直弼が広めたとも言われます⇒https://t.co/uIhBbJLhXP pic.twitter.com/lwGFhAin6i
— 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ (@History_JP_5963) March 24, 2020
本来であれば譜代筆頭の井伊家から見れば、新選組なんて下っ端の下っ端もいいところ、会社でいえば代表取締役専務と新入社員くらいの格差といえます。
いや、もっとかも知れません。
でも、新選組の隊士は幕府のために一生懸命働きます。
攘夷討幕側の志士たちをこれでもかという位厳しく取り締まります。
正に、井伊直政が徳川家康に尽くした忠誠を彷彿します。
彦根藩は新選組の敵となったって本当なの?
出典:ttps://moeyoken-movie.com/shinsengumi2020/
ところが、忠節を尽くした筈の新選組は最後の最後にドンデン返しを食らってしまいます。
何と譜代筆頭の井伊家は戊辰戦争では彦根藩として完全な新政府側についたのです。
新選組からすれば、なんだそれ?って思いだったでしょう。
さすがに、直接の雇われ先であった会津藩は新選組と運命を共にしますが。
しかも、井伊家彦根藩は新選組の局長:近藤勇を捕縛するのに加わったともいわれます。
また、捕縛された近藤勇の除名嘆願を握りつぶしたのは当時幕府の代表となっていた勝海舟です。
新選組からすれば正に忠誠を尽くしてきた親分に裏切られたっていう思いでしょうね。
今回、燃えよ剣映画のロケに使われたオープンセットが滋賀県彦根市にある。
彦根城の目と鼻の先にある場所で、燃えよ剣映画のの撮影が行われたというのは、不思議な因縁を感じてしまいます。
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まとめ
郵便局来たらたくさん残ってたから頂いてきた!
燃えよ剣のロケ地ですよ~#燃えよ剣 pic.twitter.com/LP9QjAaDBO— りらこ (@v61998ken1979) April 25, 2020
燃えよ剣映画の滋賀のロケ地はどこ?彦根オープンセットとの不思議な因縁って何?についてご紹介してきました。
滋賀県彦根市は歴史好きな人には大好きな街でしょう。
街のシンボルの彦根城は天守閣が現存する貴重な城です。
街自体が歴史の風情があり、燃えよ剣映画みたいな時代劇の撮影にはピッタリな雰囲気があふれています。
今回ご紹介した彦根オープンセットも、いずれは日光江戸村みたいな観光地になるかもしれません。
彦根市と新選組、燃えよ剣映画のロケ地なんて不思議な因縁も歴史の巡り合わせなんでしょうか。
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